ドラムの村上ポンタ秀一氏が死去~有名ドラマー逝去

この記事は約2分で読めます。
スポンサーリンク

日本の音楽界を長年に渡り牽引したドラムの村上ポンタ秀一氏が逝去した。享年70歳であった。

スポンサーリンク

村上ポンタ秀一経歴

村上“ポンタ”秀一(むらかみ しゅういち、1951年1月1日生まれ)は、日本を代表するドラマーとして、ジャズ、ロック、J-POP、歌謡曲など幅広いジャンルで活躍しました。その卓越した技術と多彩な音楽性で、多くのアーティストから信頼を寄せられ、音楽シーンに多大な影響を与えました。

生い立ちと音楽との出会い

兵庫県西宮市で生まれた村上氏は、幼少期を京都の祇園で過ごし、母親の親友である芸妓「ポンタ姐さん」に育てられました。このことから、愛称の「ポンタ」は彼女に由来しています。西宮市立今津中学校の吹奏楽部でフレンチホルンを始め、西宮市立西宮高等学校ではブラスバンド部の部長兼指揮者を務めました。大阪教育大学に進学するも、学生運動の影響で中退し、その後、音楽の道を本格的に歩み始めました。

プロデビューと多彩な活動

1972年、フォークグループ「赤い鳥」のドラマーとしてプロデビュー。その後、井上陽水、吉田拓郎、山下達郎、松任谷由実、矢沢永吉、桑田佳祐、尾崎豊など、数多くのアーティストのレコーディングやライブに参加し、その数は1万枚を超えるとも言われています。

愛称「ポンタ」の由来

幼少期に育ての親である「ポンタ姐さん」から愛情を受けて育ったことから、村上氏は「ポンタ」という愛称で親しまれるようになりました。この愛称は、彼の人柄や音楽性とも深く結びついており、多くのファンやミュージシャンから親しまれています。

影響とレガシー

村上氏の影響は日本国内にとどまらず、海外のミュージシャンとも共演し、その名を広めました。彼のドラミングは、多くの後進のドラマーに影響を与え、現在もそのスタイルや精神は受け継がれています。

村上“ポンタ”秀一が参加した代表的な楽曲

  • 井上陽水 –「リバーサイド ホテル」 (1982)
  • 吉田拓郎 –「全部だきしめて」 (1997)
  • 山下達郎 –「SPARKLE」 (1982)
  • 矢沢永吉 –「時間よ止まれ」 (1978)
  • 桑田佳祐 –「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」 (1987)

まとめ

村上“ポンタ”秀一氏は、その卓越した技術と幅広い音楽性で、日本の音楽シーンに多大な貢献をしました。彼の音楽は今も多くの人々に愛され、影響を与え続けています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました